平和について語り合い、憲法を考える場をつくりたい。カフェナインズはそんな思いで集まっています。あなたも一緒にいかがですか?


by cafe_9s1204

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Cafe9s 12月ティーチイン・ミーティングへのお誘い

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Cafe9sは、2005年から毎年、京都で様々な社会運動や取り組みを行なってきた学生や市民が中心となって憲法9条について議論する企画を開催してきたグループです。参加者やスタッフは最初から、平和や社会問題、あるいは憲法について、同じ考えを持っていたわけではありませんでした。それは一人ひとりが生活をする場も、使ってきた言葉も、作り上げてきた人間関係も、何一つ同じではなかったからです。しかしいったん集まってみたとき、意見が異なることがかけがえのないもののように感じられたことも事実でした。

だったらじっくり議論をする場をつくってはどうか?そう考えてつくり上げたのがCafe9sでした。ティーチイン(討論集会)と呼ばれる、1960年代アメリカでベトナム反戦運動をしていた学生や市民が考え出した、開かれた議論のための空間を、私たちはいま、この京都でつくりたい。民主主義が形骸化し戦争が自分たちの預かり知らぬところで始まる、そんな社会に抵抗するために、私たちは自分自身の力で、生きることと戦争とのかかわりを問い直し、草の根のデモクラシーをつくりたい、それが出発点です。

反戦平和、食と農業、グローバリゼーションと南北問題、沖縄の米軍基地問題、戦時性暴力と戦後責任の問題、バリアフリー、音楽と文化、そして表現…。議論になった課題は無数にあります。それは無数の個人がともに場を共有し、つくりあげる作業のなかから生み落とされた課題でした。

そして今年もまた、3度目になるティーチインを、12月に開催したいと思っています。恒例となったカフェも出店を予定していて、私たちが普段口にしている食べ物や飲み物から、戦争や貧困のない世界を考えられるような企画なんかもできたらいいなと考えています。生活経験や問題意識が共有できる企画を、みなさんとともに一から作り上げていきたい。どんなふうに形作っていくか、それを会議や企画当日に集まった一人ひとりとじっくりと語り合いながら生み出していければと願っています。

そのため、12月企画に向けたミーティングを開催したいと思いますので、ぜひ一度ご参加ください。


■ 第1回ミーティング    
日時: 2007年9月12日(水)20:00~
場所: ホリーズカフェ本能寺会館店(京都市役所前)

(⇒周辺地図http://www.hollys-corp.jp/cgi-local/websys.cgi/storedetail/12612)
連絡先: cafe_9s1204@yahoo.co.jp

議題:
① 自己紹介
② カフェナインズのこれまでを振返って
③ 憲法がおかれている政治的状況について
④ どんな企画がしたいか、それぞれの意見の交換
and more…

※ カフェナインズは、憲法9条の改悪反対に共鳴する個人をむすぶ枠組みとして取り組みを行なってきました。会議へもその意思をもつ方ならば誰でも参加可能ですので、お気軽にご参加ください。

※ 12月ティーチインは、一人ひとりの問題意識や社会的関心を反映した企画にしたいと思っています。私たちは、さまざまな出会いをつうじて、新しい政治への可能性や未来をつくりあげる場でありたいと願っていますので、会議でも積極的にご意見いただければと思っています。

※ 今後の情報や取組み、会議の案内が欲しいという方は、カフェナインズ・メーリングリスト(ML)にご参加ください。ML参加には会議への出席如何を問いません。

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呼びかけ: Cafe9s(カフェナインズ)
[blog]  http://cafe9s.exblog.jp
[mail]  cafe_9s1204@yahoo.co.jp
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以上
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by cafe_9s1204 | 2007-09-10 01:23

カフェナインズって?

Cafe9sは、2005年から毎年、京都で様々な社会運動や取り組みを行なってきた学生や市民が中心となって憲法9条について討議する企画を開催してきたグループです。参加者やスタッフは最初から、平和や社会問題、あるいは憲法について、同じ考えを持っていたわけではありませんでした。それは一人ひとりが生活をする場も、使ってきた言葉も、作り上げてきた人間関係も、何一つ同じではなかったからです。しかしいったん集まってみたとき、意見が異なることがかけがえのないもののように感じられたことも事実でした。

だったらじっくり議論をする場をつくってはどうか?そう考えてつくり上げたのがCafe9sでした。ティーチイン(討論集会)と呼ばれる、1960年代アメリカでベトナム反戦運動をしていた学生や市民が考え出した、開かれた議論のための空間を、私たちはいま、この京都でつくりたい。民主主義が形骸化し戦争が自分たちの預かり知らぬところで始まる、そんな社会に抵抗するために、私たちは自分自身の力で、生きることと戦争とのかかわりを問い直し、草の根のデモクラシーをつくりたい、それが出発点です。

反戦平和、食と農業、グローバリゼーションと南北問題、沖縄の米軍基地問題、戦時性暴力と戦後責任の問題、バリアフリー、音楽と文化、そして表現…。議論になった課題は無数にあります。それは無数の個人がともに場を共有し、つくりあげる作業のなかから生み落とされた課題でした。

Cafe9sはこれからも、平和のための対話と議論の場をつくる活動を行なっていきたいと思っています。午後のカフェのようにくつろぎ、ゆったりとした場所で、まだ見ぬあなたとともに、新たな言葉を創造することを夢見ながら…。
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by cafe_9s1204 | 2007-08-03 01:01
■ 日時:9月9日(日)13:30-16:00
■ 場所:ハートピア京都3階 視聴覚室
(市営地下鉄烏丸線「丸太町」下車、5番出口上る)

↓今度のカフェナインズ学習会の問題意識です。

活発な意見交換ができ大盛況に終わった前回の学習会(6月開催、テーマ「ワーキングプアー」)に引き続き、今度はメディアと表現をめぐる問題を考えたいと思っています。現在、マスメディアが抱える問題は深刻な状況にあります。情報化社会のなかで、報道をふくめたあらゆる文化表現が広告産業に代表されるコマーシャリズム(商品化)の論理に支配されています。そのことが危機的な問題になったのは、戦争報道をめぐってだったように思います。2001年「9.11」同時多発テロのとき、全米のメディアから反戦の声がかき消されました。2003年3月、イラク戦争では米軍から流される情報のみが全世界のマスメディアを駆け回りました。

「情報操作」。マスコミが多国籍資本のもとで表現メディアを独占するなかで起こっているいびつな戦争報道に、私たちはどう抵抗していけばいいでしょうか。今回発言いただける守田敏也さんは、市民メディアの取り組みとして「みんなの滋賀新聞」記者の経験がおありで、現在も、水俣やJR脱線事故など様々な社会問題に丁寧な取材を通じて発言されてこられました。商業主義化するメディアと「在野的精神」を失ったジャーナリズムに警鐘をならされ、市民一人ひとりが声を挙げていくことの重要性を主張されています。また、島原登志郎さんは、フリーペーパー『PeaceMedia』を編集発行され、京都の社会運動をつなぐ<対抗メディア>の実践をされてきました。<言論の自由>があたかもマスコミの占有物のように扱われる日本の記者クラブ制度を批判され、市民に開かれた表現の場を模索しながら活動されています。今回の学習会では、お二人からの問題提起を受けて、会場の参加者みなさんとともに議論をしていきたいと考えていますので、お気軽にご参加ください。
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by cafe_9s1204 | 2007-08-03 00:55

もうすぐ企画だっ!

いよいよ6月企画です。

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cafe9s企画案内・トークアッセンブリ

「憲法のいま・これから ―改憲と非国民―」


【時】 2007年6月16日(土) 19:00~21:00
【処】 ひと・まち交流館 京都 2階 第1会議室 (河原町正面)
アクセス:http://www.hitomachi-kyoto.jp/access.html
【発言者】 萩原一哉、島原登志郎、他

参加無料、イチゲンサン大歓迎!
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さて、当日のトーク内容ですが、

①フリーター・ニート問題から護憲運動の課題を考える
赤木智弘さんが『論座』に書かれた文章「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を手がかりに、フリーター問題と憲法9条との関わりについて考えます。「戦争を欲する」という刺激的な内容に、今、世間では大論争が起きているわけですが、赤木さんの文章からは「ワーキングプア」と呼ばれる低所得階層の激増にもかかわらず、左派がけっして社会的な力を獲得できていない現状と、無力感がかいま見えるのではないかと思います。いや、護憲なんてリッチな知識階層の空言のようでしかないのかもしれません。

社会が低所得者層に対する徹底的な社会的排除をすすめればすすめるほど、国民統合への熱望がひき起こる事態は、けっして日本だけではないでしょう。極右勢力が伸張しているヨーロッパにしろ、兵役に貧困層が志願する構造をもつアメリカにしろ、そこには市民権を享受する主体をめぐる争いが起こっています。

護憲派は今こそ、”戦争を肯定する”赤木さんの文章を批判するのではなく、彼の文章とともに、運動を再検証しなければいけないのではないか、と思います。

②国民投票法成立以後を考える
先月国会で成立した国民投票法は、さまざまな問題点が指摘されてきました。こんかいのカフェナインズでは、上記のフリーターニート問題だけでなく、この国民投票なるものを考えるために、模擬投票をやってみようと思っています。体験されるとわかるんですが、これがけっこうややこしいです。

以上の2点がテーマです。

誰でも参加可能なので、ぜひ一度足をお運び下さい。
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by cafe_9s1204 | 2007-06-06 02:20

カフェナインズ次回会議

次回会議は・・・
【時】 5月16日(水)20:00~
【処】 サンシャインカフェ http://sunshinecafe.cool.ne.jp/
(三条通寺町東入 イシズミビル5階)

※ 主に6月16日の企画について話し合いますが、情勢共有や意見交換など交流をしつつ和気藹々とやっています。初めての方も気軽におこしくださいね。
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by cafe_9s1204 | 2007-04-20 05:53
cafe9s企画案内・トークアッセンブリ

「憲法のいま・これから ―改憲と非国民―」
  


【時】 2007年6月16日(土) 19:00~21:00
【処】 ひと・まち交流館 京都 2階 第1会議室 (河原町正面)
アクセス:http://www.hitomachi-kyoto.jp/access.html
【発言者】 萩原一哉、島原登志郎、他

憲法が変えられるかもしれない。そんな状況が生み出されている。

だからこそ、私たちは一度立ち止まって考え、話し合ってみる
必要があるのだと思う。今度の学習会のテーマは、「非国民」。

憲法には「われら日本国民は…」と書かれ、改憲手続法の
名前は「国民投票法」と名づけられている。んっ、思えば憲法を
語る言葉には、「国民」という語のオンパレード! だとすれば、
「憲法を守れ」と言うとき、「国民」でないものを排除しない視点を、
つねに大切にしなければならないのでは?

一人ひとりの生きる権利を見つめ、社会的マイノリティを排除する
暴力を生み出さないために、いま私たちができること。

【お問い合わせ】 Cafe9's (カフェナインズ)
[blog] http://cafe9s.exblog.jp/
[web] http://www.geocities.jp/cafe_9s1204/
[mail] cafe_9s1204@yahoo.co.jp
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by cafe_9s1204 | 2007-04-17 23:30
9条を守ろうということで集まったメンバーで、初企画として開催した「カフェ9’s」が終わってから10日ほど。同じような問題関心や考えを持っていながら、それほどの交流を持つ機会にめぐまれなかったそれぞれが、試行錯誤しながら、議論をし、イベントを練り上げてきたこの間の時間は、私にとって、ほんとうに有意義なものだった。

「若者が憲法を守るために何かできることを」という一人の呼びかけが、それぞれの経路をたどり、ばらばらだった個人のもとへ届いていく流れが、実行委員会という場やイベント当日への参加を促していった。集まったのは、動員された運動員ではなく、世間一般に言う「若者」というカテゴリーに収まらない多様な顔を持つ個人である。だから必然的に、初発の呼びかけにある「若者」だとか、「憲法を守る」だとかといった、分かったようで分からない言葉の問い直しをも生み出していった。あるいはまた、この運動そのものの意味を毎度毎度の会議で問い直し、議論していくというスリリングな瞬間を孕みながらの作業だった。その一連の過程こそが、この「カフェ9’s」そのものであり、語の忠実な意味での「運動」=「流れ」だったのではないかと思う。

12月4日は、三条河川敷に100名を大きく超える人たちが集まった。ライブパフォーマンスを終えた後、私は司会者としてティーチイン(討論集会)という場を担当し、参加者間での意見交流を行った。降りしきる雨と、凍てつくような寒さのなかで、震え縮こまった身体を、開かせてくれるような多くの意見が飛び交った。そんないくつもの言葉に身体を晒し、内奥へと刻んでいく快感と、思考の経巡りが、思ってもみない言葉の創造を生み出してくれたように思う。

12月4日だけで終わらないでおこうと、実行委に集まった私たちは思っている。議論の場は、さらなる議論の場を求め続けるはずだと思うからだ。かけがえのない言葉や想念を生み出してくれた議論の場へ、もう一度、その言葉を送り返すために、ここで私自身が12月4日に感じ取ったいくつかの論点を列挙してみたい。
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① 「9条を変えて戦争をする国にするな」というスローガンは正しいか?
このスローガンには、「戦争をしない国」から「戦争をする国」へ、というイメージ(共通了解)が込められている。だけど、それは正しくないというよりもウソである。正確に言えば、日本が戦争をしなかった時期は、近代史のなかで一度でもあったためしはないのだ。朝鮮戦争やベトナム戦争で、戦地へ飛び立った米軍はどこから出撃しただろうか。米軍の使用した銃器はどこで製造されただろうか。答えは、「平和」憲法下の日本である。湾岸戦争でもアフガン=イラク戦争でも、日本は米軍の後方で行動してきた。戦後27年間、分離統治された沖縄では、今日に至るまで米軍基地が集中し、まるで戦場のような日常が続いている。これらの事例を無視して、憲法を語るのは、まやかしではないのかと思うのだ。

しかし、このスローガンが、運動をする側の共通了解になりえるのには、それなりの背景があるのも事実だろう。爆弾の雨がやみ、青年たちが戦場から次々と帰還する戦後直後の風景は、「平和」を民衆的実感として体得した瞬間だったし、そこで手にした「新しい憲法」は、まさしくその実感を的確に表現した言葉だっただろう。あるいはまた、砂川や内灘といった地域で米軍基地建設に抵抗した人々にとって、「平和憲法」は「勝ち取った権利」だったにちがいない。ビキニ環礁で水爆実験に遭遇した船が帰港したとき、それは戦後の民衆にとって、突如として現れた未来の戦争の影として写っただろうし、原水禁運動がスローガンとした「二度とふたたび(ノー・モア)」は「平和憲法」の再読を通じた過去の戦争への反省だったと思う。

ここに列挙した一つひとつの記憶は、大切なものにちがいない。しかし、と私はもう一度問うてみたい。戦後60年間、日本が平和だったというのは間違いではないのか。ある一つの事例を挙げてみたい。朝鮮戦争のさい、在日朝鮮人たちの多くが反戦運動を起こした。関西でも、吹田や枚方で、朝鮮人たちと共産党の青年党員たちによって、大きな反戦運動が起こっている。解放されたはずの故郷が、ふたたび戦場と化した朝鮮人たちにとって、戦争は過去のものでも、未来のものでもなかったはずだ。同胞たちが殺し殺される朝鮮半島に日本から軍用列車が向かっていく光景は、彼らをして、戦争が<今ここ>に起こった現在進行形のものとして捉えられたにちがいない。この事実を、憲法を語るさいにも忘れてはならないだろう。

「旧憲法=侵略戦争の過去」「今の憲法=戦争をしない現在」「自民党が作った改憲案=戦争をする未来」という視点は、やはり誤りだと思う。戦争を、同時代の、同じ社会のものとして捉える想像力を、私は、提起したい。

② 「大きな運動」をおこせばそれでいいのか?
憲法の改正手続きには、衆参両議院の3分の2と国民投票で過半数の賛成を要する。だから「大きな国民的規模の運動」が必要だという声がある。確かにそうかもしれないと、私も思う。だが一方で、「大きな運動」をおこせばそれでいいのかという疑問も付きまとう。

そもそも「大きな運動」とは何だろうか。あるいは「多数派を形成する」とは何だろうか。この言葉の指している意味はそれほど複雑ではない。それは、「社会の成員の多数が同意をする」ということだ。もっと厳密に言えば、「社会の成員の多数が同じ立場に立つ」ということだ。

しかし、もともと少数派を決定づけられたものにとって、多数派の合意とは暴力でしかない。例えば、障害者や性的マイノリティ、難民や「不法滞在」の外国人たち、そんな多数派にはなりえないことを決定づけられた人々にとって、多数派の合意は、自分たちの政治的意思表示を圧迫する存在になりかねないのだから。さらに言えば、政治的意思表示すらもできない人々が、そこでどう扱われるかを考えてほしい。

ここまで読んでくださった方には、私の発話の意図を測りかねるという疑問をもたれるかもしれない。「平和憲法」を守ることはいいことだし、いいことを多数の意見にしていくことは大切だと思われるかもしれない。私もそれには同感なのだけど、同時に考えなければいけないこともあるように思う。

それは、憲法運動はナショナリズムとつねにかかわりを持ち続けているということである。憲法は、どんな憲法であれ、「国民」を創造する。そして「国民」から零れ落ちる「非国民」を創造する。現に、日本国憲法は「日本国民は…」という書き出しで始まっているし、そこに書き込まれたいくつもの権利は、日本国民に保障されたものにすぎない。

この文章の最初に定義した「少数派」=「多数派になりえないもの」という定義を、ここでもう一度言い換えるならば、「非国民」とは「国民になりえないもの」として「国民」の側から定義される存在なのだということだ。この社会は日本国民だけで構成されているわけではないという当たり前の事実を、憲法(運動)はつねに取り逃してしまうといえまいか。

「国民」と「非国民」の境界線は一定ではない。戦前であれば共産主義者、同性愛者、ハンセン病患者は「非国民」だったし、戦後は旧植民地出身者を「第三国人」として「非国民」化してきた歴史を、この社会は持つ。一方で、日本国憲法の条文は「権利を日本国民に保障する」としか書いてはいないが、権利とはそもそも、この「国民」と「非国民」の境界線を「非国民」の側から問い直し、揺るがせる運動のなかで勝ち取られてきたものだったはずだ。

少数派/「非国民」の視点から憲法を読み直すことで、憲法の持つ限界を越えていく可能性を探っていかなければならないのではないかと思う。

③ 「戦争」とは何か?――反戦運動と「憲法」
イラク戦争が起こったとき、多くの学生や市民が街頭に出て、反戦デモをした。私もそんななかの一人だ。あの時のあの光景は、今でも鮮やかに蘇ってくる。おそらくそこにいた誰もが戦争とは何か、戦争を止めるにはどうすればいいのかを、手探りで考えていたにちがいない。私があの時考えていたことの一つをここで書けば、イラク開戦前のデモに見られた「始める前に止めよう」というスローガンに違和感を持ったことがある。ある日突然に戦争は始まらない。ブッシュ大統領が宣戦布告をする前から、アメリカ軍はイラクに向けて飛び立っているし、国境を接する国々の検問所は、戦争を逃れようとするイラク人たちを追い返し始めているはずだと思ったからだ。国境が閉ざされたとき、人々に残されているのは生きることを運命にゆだねることでしかない。戦争に向けた国境閉鎖は、イラク全土が「死の強制収容所」と化す事態なのではないかと思ったのだ。その意味で戦争はすでに始まっている。だから、私は、「国境を閉ざすな」「日本は難民を受け入れよ」と叫んでいた。「始める前に止めよう」という市民の隊列にも、「アメリカは安保理決議に従え」という共産党系の隊列にも、かなりの反感を覚えたのである。

そんな手探りの問いかけが憲法運動にも必要なのではないだろうか。毎年2回行われている憲法集会に顔をのぞかせて違和感を覚えるのは、運動が憲法という既成の文章に寄りかかって運動のなかから言葉を作り出す努力を怠ってきたのではないかという疑念である。

イラク戦争のさい、デモに参加した市民から憲法9条を叫ぶ声がきわめて少なかった事実を思い出そう。それは、自然発生的運動だったために市民の情勢認識が憲法を口にするほど発展していなかったなどという硬直した党派的思考では理解できない。むしろ、それは、今引き起こりつつある戦争という事態に対して、戦争を語り批判する言葉を探し出そうとする、参加者たちの真摯な姿勢だったのではないだろうか。

「戦争は憲法違反です」という言葉は、それを発した瞬間に思考停止に陥る。なぜ戦争がいけないかを自分の言葉で思考する労を省いてしまうからだ。今何が起こっているのか、自分たちの生活はどう変わるのか。その不安感や焦燥のなかで、一人ひとりが考え議論し、何をすべきかを見つけていく、そんな作業をしていかなければいけないのではないか。

最後にひとつだけ提起をして終わりたい。今、世界では「戦争」のありかたが変わりつつある。冷戦体制が終わり、国家間戦争が減るなかで、内戦や地域紛争といった非正規戦争が多発し続けている。また、資本のグローバル化が進むなかで、社会的マイノリティに対する監視や管理が強化されつつある。「秩序の維持」を名目に、軍隊が警察と共同で行動したり、NPOや民間企業が軍や警察とともに治安対策にあたったりする動きが目に見えて増えてきた。ある論者の言葉を借りれば「ミクロな殲滅戦争」が日常的に生じているのだ。日本も例外なくこの傾向にある。

憲法9条はたしかに交戦権を否認している。しかし、9条はこうした「新しい戦争」の姿を想定した条文ではない。現に現行憲法においても、政府は「新しい戦争」をすることは可能であるし、実行してきているのだ。だから、今、問わなければならないのは、戦争とは何か、なぜ戦争に反対するのか、そのために何ができるのか、という一連の連続する問いではないだろうか。戦争の概念が変わったのなら、「新しい戦争」すらもできないように縛りを掛けうる条文を盛り込もうと議論するのも、いいだろう。あるいはそもそも国家なんていらないというアナーキストの主張に耳を傾けるのも面白い。

かつてチェコスロバキアの作家ミラン・クンデラは共産党による独裁体制の「非-思考」を批判し、数々の作品を物した。

「神聖にして犯すべからざる確信の上に建てられた世界においては、小説は死ぬ。全体主義的な世界とは――それがマルクス主義に、あるいはイスラムの教理に、またいかなるものに根ざして建てられたものであれ――問いかけquestionsよりはむしろ答えanswersの世界です。そこには小説に居るべき場所はありません。」(ミラン・クンデラ)

問いかけること、そして行動すること。そうした試みの一つひとつが、今私たちに求められている。
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長文、失礼しました。企画の当日、言いたかったことや言えなかったことを考えているうちにダラダラと書いてしまいました。

それぞれの問題意識を書き合おうと始まった、このBLOG。運動は一致点だけでは形成しえない、一致点を形成するための作業から始めねばという思いから、言いたいことを、誰かがきっと読んでくれるにちがいないというかすかな希望を持って、独白のようにぶちまけてしまいました。これを読んだ方、反論でも苦情でも感想でも何でもいいのでレスを。またこの文章に誰かが続いてくれることを願って、筆を擱きたいと思います。(by HG)
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by cafe_9s1204 | 2005-12-15 23:40

「世代」と憲法9条

 平和のメッセージグッズ紹介、頒布活動を一人で続けていますが、その活動の性質上、様々な世代、年齢層の人たちと出会えます。
 
 彼らを見ていると、各世代で平和活動への取り組み方に違いがあったり、世代間で互いにギャップを感じて居るらしい事を感じることが多いのです。
また、30歳代から40歳代の姿を見ることがあまり無いことも気になります。

 憲法9条は、戦争放棄することで、人が国家によって殺人を強要されたり、自らが殺されたりすることをくい止め、人が「人間として」「生き」る権利を保障しているものだから、あらゆる世代にとって、守り活かす意味が充分にあると考えます。

 当然のことですが、社会は常に様々な世代が共存して構成されているものです。世代間の継承や伝達がある程度なければ文化は消えてしまうのではないでしょうか。

平和活動に関して、その必要な継承は出来ているでしょうか。新たな創造は出来つつあるのでしょうか。

 冒頭に挙げた観察を基に、平和活動に関しても、世代間で大きな断絶が生じ(てい)ると仮定するなら、それは若者の部類に入る私にとっても不安な事です。

「平和への想い」や「行動力」を、あるいは受け継ぎ、あるいは発展させていきたいのです。

それを実現するにはどうすれば良いのか。これが私の関心事なのです。
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by cafe_9s1204 | 2005-12-01 21:18